韓国の急速な近代化の影に隠された暗い歴史があります。1970年代から1980年代にかけて釜山に存在した兄弟福祉院(형제복지원)は、表向きは福祉施設でありながら、韓国現代史における最も深刻な人権侵害が行われた場所の一つとなりました。その残虐性は余りにも凄まじく、韓国メディアはこの施設を「韓国のアウシュビッツ」と呼びました。
兄弟福祉院の始まり
この物語は1960年、釜山の甘萬洞に「兄弟育児所」(형제육아소)という名で設立されたところから始まります。当初は善意の児童養護施設として出発しましたが、次第に恐ろしい場所へと変貌していきました。韓国が1986年のアジア競技大会と1988年のオリンピックに向けて国際社会に近代化された姿を見せようと努める中で、この施設は孤児の保護を超えて、社会的弱者を収容する施設へと拡大していきました。
1975年7月、周礼洞に移転した後、兄弟福祉院は釜山市と契約を結び、公式な浮浪者収容施設となりました。この変化は政府の広範な「社会浄化」政策と呼応していました。「社会浄化」という美名の下には、「望ましくない」人々を公衆の目から排除しようとする意図が隠されていたのです。
組織的な人権侵害
施設内では恐ろしい虐待システムが機能していました。管理は「軍隊式指揮系統」で行われ、収容者は120人ごとに「小隊」として編成されました。収容された人々はホームレスだけでなく、孤児、障害者、さらには路上で理由もなく連行された一般市民も含まれていました。
虐待は様々な形で行われました。身体的暴力は日常的で、収容者は定期的に暴行や拷問を受けました。施設は連帯責任制を実施し、一人の過ちで全体が処罰を受けました。院長の朴仁根本人も虐待に加担し、その事務所には手錠と樫の木の棍棒が置かれていたと言われています。
さらに衝撃的だったのは薬物の乱用でした。記録によると、1986年だけで兄弟福祉院は25万錠のクロルプロマジンと他の抗精神病薬を購入しています。これらの薬物は治療目的ではなく、収容者を制御するための化学的拘束手段として使用されました。
人命の代償
兄弟福祉院が引き起こした人命の損失は衝撃的です。1975年から1988年の間に少なくとも657人がここで命を落としました。犠牲者の遺体は様々な運命をたどりました。ある者は密かに埋葬され、ある者は公営墓地で火葬され、一部は病院に売られました。それぞれの数字の背後には一つの命があり、答えを得られなかった家族がおり、必ず語り継がれるべき不当な物語があったのです。
国際養子縁組の問題
兄弟福祉院の暗い遺産は国際養子縁組を通じて韓国の外にも広がりました。1979年から1986年の間に、少なくとも19人の子どもたちがこの施設を通じて海外に養子に出されました。これは約20万人の韓国の子どもたち(主に女児)が海外に送られたより大規模な動きの一部であり、現在では世界最大の海外養子のディアスポラを形成しています。
遅れた正義
1986年、検事の金容元が施設に関連する強制労働の証拠を発見したことで、兄弟福祉院の真実が明らかになり始めました。彼の調査は1987年1月に全面的な捜査へと発展し、虐待の実態が明らかになりました。しかし、正義は遠く及びませんでした。院長の朴仁根はわずか2年6ヶ月の刑を言い渡されただけで、それも人権侵害ではなく横領の罪でした。
歴史的教訓と現代的意義
今日、兄弟福祉院の物語は、弱者を保護すべき機関がいかに抑圧の道具となりうるかを示す痛ましい教訓となっています。この事件は引き続き韓国の社会福祉政策と人権議論に影響を与えています。真実和解委員会の最近の調査(2022-2024年)は、より多くの真実を明らかにし、この暗い歴史が忘れられないようにしています。
兄弟福祉院の物語は単なる歴史的記録を超えて、制度的虐待の危険性と社会的弱者保護の重要性を喚起する警告となっています。韓国がこの遺産と向き合い続ける中で、兄弟福祉院の教訓は世界中の社会にとって今なお現実的な意味を持ち続けています。
この記事は人権侵害に関連する敏感な歴史的事件を扱っています。読者の皆様のご配慮をお願いいたします。